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(司会) なるほど。ところで、おそらく皆さん最初はお医者さんになりたくて医学部に入ったんじゃないかと思うんです。それがある段階で研究へと。そこで、まず最初に学部レベルで医学にすすもうと思ったきっかけと、その後研究に転身するきっかけをお聞かせ下さい。みなさんすでに少しずつお話し下さいましたが、もっと決定的な因子をお願いします。
(後藤) それは単純で、親が医者だったからです。祖父も二人とも医者なんです。といっても医学をやっていたわけではなく、ずっといわゆる町医者を静岡県でやっていました。なので、本当に医療は身近で、かっこいいなと。非常に尊敬も受けるし。医学部に行って、そのうち開業するんだろうなあと思っていました。その一方で、医療をお金というか社会システムの観点から考えることには、ずっと興味がありました。学部時代病院実習でイギリスにいくことになりました。 イギリスではまず GP(general practitioner の略、イギリスにおける総合医のこと)がまず患者さんを必ず診て、必要があったら大きな病院を紹介する。日本みたいに大きな病院に直接行くという自由はないんです。 そのかわり、GP は患者さんの家族のケアとかまで考えてやると。 そこで見たのがね、ある人のカルテって生まれた時からあるんですよ。古文書みたいな産婦人科のカルテから現在の病気まで、一元管理されてる。 これはすごいなと思ったんですね。 その GP がその人の家族、さらに地域も全部みて。その一帯の地域の医療行政も、GP や病院や学者や、役人や、いろんな人が共同してシステムを作っている。それを見て、これは面白いなと。それで公衆衛生や医療経済に興味を持ったんです。そのとき、 京大で医療経済をやっていた西村周三先生が、サバティカルでヨーク大学にいたんですよ。そこでヨークまで会いに行って、話を聞いて、本格的にやってみようかなと思いました。そこからはまあ、ほんとにすごく面白くて、医療費や医療制度に関しても自分の知らないことがたくさんあるし、 経済学の考え方に触れてどんどんはまりこんでしまいました。
(司会) なるほど。楯谷さんはいかがでしょう?
(楯谷) そうですね、私はいろんな意味でひょっとしたら後藤さんと反対のような気がします。一族に医者は一人もおらず、医学部にいきたいなと思ったのは、お医者さんになりたいというよりは医学そのものをやりたいなというのがあって。確かに他の生命科学系の学部でも良かったかもしれないですね。ただ高校の時、 私は特に理系が得意ってわけでもなかったんですよ。どの勉強も割と好きで。何やりたいかといろいろ考えたとき、人間がやっぱり一番面白いと思ってたんですね。だから人間がよく分かる、勉強になるとこに行きたいなと。それも生物学的な側面と、 精神的・文化的な側面があって、どっちも興味はあったんですけど、まず生き物としての人間を勉強してみたいなと思ったんですね。それで大学に入って、研究は当初はする気満々だったわけですね。それで実際、いろんな研究室がありますけど研究のお手伝いみたいな学生を募っているところもあったんで、それに行ったりもしていました。一方で、学年が進むにつれ、だんだん基礎的な学問から臨床的な学問に移っていって、最後は臨床実習があるわけですね。私はたぶん好奇心が強い方だったからかもしれないですけど、目の前で面白そうにやっているのを見たら、自分もやってみたくなるという性みたいなものがあって、臨床がやりたくなったんですね。そのなかでも、私は細かいこちょこちょした手作業が大好きだったので、ぜひ外科系にいきたいと思ったんです。外科系の中で私は耳鼻咽喉科を選んだわけなんですけど、これを何で選んだかというと、一番こちょこちょしてそうなところだったからで(笑)。耳鼻科って一般の方は開業の耳鼻科の印象が強いかと思うんですけど、首から上で脳と目と歯以外はすべて耳鼻科の守備範囲なんです。手術の種類がすごく多くてテクニカルには難しいけどその分面白そうと思ったんですが、それは実際間違ってなかったです。で、夢中で臨床をしていたんですが、卒後 5 年くらい経って同業の夫が大学院卒業後ポスドクになって留学したいって言ったんですよね。それなら折角だから私も行ってみたいと。一緒に研究室に行ってただ働きでもいいから何かやってみたいなと思ったんですね。そしたら教授が、大学院に入ったら委託研究っていうのがあるからそれで行って研究したら、というのを教えてくれたんですよ。それで、ああそうかと思って、 大学院受けて大学院生になりました。 その時点では、大学院の研究を一通りやったら、他の多くの臨床系のお医者さんと同様に、終わったらまた臨床に戻るのかなくらいのつもりで研究始めたんですけど。夫の留学先が声帯の研究をしているところだったので、まず始めたのは声帯の研究でした。今と全然違うんですが。私はこの臓器をぜひ調べたいという発想ではなくて、どこでも真剣に調べたらいっぱい面白いことや分からないことが出てくるだろうというよくわからない信念みたいなものがあって。 それで、声帯についても全然知らなかったんですけど、機嫌よく面白くやりだしたんですね。それで留学が終わって帰ってみると、夫の方は臨床に戻りましたが、私はまだ大学院が残ってることもあって、研究しようかなと。 それまでみたいに声帯の研究を続けていくのも考えとしてあったんですけど、知識技術が全然足りないという限界を感じていました。そんなとき、 たまたま影山先生にお会いしてお話しする機会がありまして、最近何人かぬけたから場所あるしうちで実験してもいいよと言ってくださったので、 そこで勉強させてもらおうと思いました。それでそのまま居ついてしまって。最初は内耳をするつもりはあまりなくて、自分が臨床で扱ったことのある臓器を一通り調べて、何をするのが面白いかなと 1 年ほど模索していたんですけど。やっぱり影山研は神経系のラボなので、内耳が一番面白そうと思って内耳でいろいろ調べ始めたというわけです。だから実は、最初にたとえば難聴を治したいというモチベーションがあって研究に入ったわけではないです。ただ、臨床の病院をやめて留学する前に、患者さんにいろいろ言われるわけですね。そのときは声帯の研究するつもりだったので、喉頭がんの術後の患者さんから、声帯を無くした人の声が出るように一生懸命やってきてくれと激励されまして。やっぱりなるべくサイエンティフィックに面白いものを探してはいるんですけど、頭のどこかにこれがどこでどのように役に立つんかなという考えが常にあります。 でも自分でも時々、何で私は研究してるんだろうって考えることがあります。
(後藤) それは僕もそうですね。
(楯谷) 何で医者やってないんだろうって。まあ私が研究させてもらってるのはたぶん運がいいからだと私自身は思ってるんですけど。そんなとき偶々、チャールズ・エリスの『敗者のゲーム』という株式投資の本をちょこっと読んだんです。その敗者のゲームというのは、ミスをした者が自滅して負けるという、敗者になる方が勝敗を決めるゲームのことらしくて、 それに対して勝者のゲームというのは大きく勝つことが大切というゲームです。株式投資はどうやら大きく勝つことが重要ではなくて負けないことが重要らしくて、それまでどんなに好調でも 1 つのミスが命取りになるので、生き残れるのは結局ミスをしない者だけなんだそうです。それ読んだ時に、私はお医者さんの仕事も「敗者のゲーム」だなって思ったんですよね。お医者さんの仕事していたときは、一日に大きなミスをしなくて、だいたい予定通りに事を運んで、仕事が終わったら、あ~終わった、 と思って、ビールおいしい、みたいなそんな毎日だったんですけど。研究ってここが終わりっていうのが全然ないですよね。たぶん研究してる人はみんな「勝者のゲーム」に勝とうとしてやってるんだろうと思います。私もその勝ったという実感はないんですけど、2、3 か月に一回くらい、おおおっ、って思うことがあるんですよね。 まあ勘違いだったりもするんですけど(笑)。それがなんか心の支えって言ったら変ですけど、それが楽しくてやってるのかなというのはあります。
(司会) ありがとうございます。坂本さんは?
(坂本) 高校のとき、文系と理系を決めるちょっと前に祖母が亡くなりました。ずっと祖母は僕に医者になれって言っていたんですよ。僕は近い親戚に医者はいなかったんですけど、祖母が病気で病院に通っていたんです。 僕が漢字テストで 100 点をとったりすると、「りょうくん医者になれるかもしれないね」なんて言われて(笑)。 僕は相手にしていなかったんですけど。そういうことずっと言われていて。 それで、最初は文系志望だったのが、 祖母が亡くなった夜改めて医者ということを考えて。そうしたら、医学部で勉強した内容は世界的に通用するんじゃないかなと思って。知らない国の村に行っても、医学って役に立つんじゃないかなと思って。それでその夜のうちに医学部に決めて、朝母親に「僕医学部に行くことにする」と伝えて、それで医学部に行ったんですよ。
(司会) 臨床医になるか研究医になるか、当初決めてはいなかったんですか?
(坂本) そうです。とりあえず医学を勉強しようと。そうしたら、将来的にどこの地域に行っても役にたつ知識が得られるんじゃないかなと、そう思っていったんですよ。僕、「世界ウルルン滞在記」というテレビ番組が好きで(笑)。村に行って、違う文化の人と交流して感動して帰ってくるという。それが好きで、ああなんかそういうのがいいなと思って。