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(司会) ありがとうございました。では次に、皆さんが扱っているモノと、研究とのかかわりについて、お願いいたします。
(岩尾) 僕らの分野は、テキストを読むだけではなくて、モノの「手ざわり」というのが重要で、極端に言えば、偽物か本物かも「手ざわり」でわかるようなことがあると思いますね。
(荻原) トカラ語文書のばあい、ドイツが一番多いんですけども、ガラスのプレートに入ってて、触れないんですよ
(笑) 。フランスのものは、二つ折りにされた紙に入っているので、触れるんですけども、小さくて、触ると欠けたりするので、あまり触らないでほしいと言われる。
(武内) 契丹文字の場合、中国遼寧省や内蒙古の石刻資料を用いることが多いです。拓本の写真をよく使うんですけども、どうしても文字が読めないことがありますから、現地での原石調査が必要で、博物館とかに行くことがありますね。
(荻原) 拓本はいつなされたものなんですか。最近ですか。
(武内) 最近です。原石の場所がわからなくなって、拓本だけが存在しているという資料もあります。
(金) 考古学は、土器とか金属器を観察しながら製作方法を比較して、技術変化の様相を見たりします。もし、何らかの歴史的な事件と変化のタイミングが一致していたら、技術革新が生じたきっかけになったのではないかとか、そういうアプローチをしています。
(荻原) 原材料の場所はわかるんですか。
(金) 難しいですね。今ある産地が昔もあったかはわからないし、今ではわからない産地が昔あったかもしれない。例えば、新羅のお墓から金が出てくるんです。これまではどこから採れた金かわからなかった。ところが、砂金がとれるんじゃないかという研究があったりもして。
(岩尾) 僕らも似ていて、写本の紙が問題になる。敦煌文書の中でも、チベット産や敦煌産の紙は感じが違います。で、チベットの紙でないのにチベット文字が書いてあったりすると、これ何なんだってことになる。
(金) いわゆる「手ざわり」っていうのは、本当に紙の質とかを確認していく手法ということなのでしょうか。
(岩尾) そうですね。ただ、僕たちは手ざわりとか、厚さとか、漉き跡とか、その程度のレベル。最近は理科系の人が入ってきて、成分分析してるんですよ。僕らがやってるのは、本当に雑な読み方(笑)。考古学では、理科系の人の分析とかもあるわけでしょ?
(金) もちろんです。例えば土器なら、どこの土かは顕微鏡でもわかるんです。でも、鉄や金になると、成分分析して、含まれる微量元素を根拠に産地を探したりします。
(岩尾) 具体的にはどうしてるんですか。掘り屋さんがいて、掘ってくる。で、分析屋さんが別にいて、それは考古学の分野なんですか。
(金) 分析屋さんが別にいるというか、文化財科学という分野があります。そこには文系の考古学出身者もいますけど、理系の科学的方法論で最初からやってる人もいます。
(荻原) 壁画の分析が似てるでしょ?テーマの分析以外にも、どういう顔料を使うかという。写本だと、ある資料を調べてる時に、人工的な切断箇所があって、カーボン14(放射性炭素年代測定)やってるんですよ。ああ、ちょっとなあっていうのはありますよ。
(岩尾) 雑だよね、文書の扱いって。欧州の某図書館だとある文書が出てこなくて、迷子になってたという、そういうアナログなことがある(笑)。
(金) 考古学、モノ見つからない、しょっちゅうですよ。
(岩尾) しょっちゅう?
(金) はい(笑)。土器とかの破片がコンテナ何十箱分と出土するんですけど、その中で「報告されてるこの破片を出してくれ」と言われた時、探すのが大変で。
(岩尾) 拓本じゃ、そんなことないか。
(武内) 博物館所蔵の資料に、片面漢字、片面契丹文字の墓誌があるんですね。でも、漢字のほうが需要があるから、契丹面は壁にくっつけていて実見調査できないというものがあったりするんですよね。
(岩尾) 野ざらしで、モノとしてボロボロになったものもあるんじゃないですか。
(武内) ありますね。昔とった拓本が何とか使えるかどうかですね。
(岩尾) 拓本がモノよりもいい場合があるというのはそうですよね。チベットでも、ラサのど真ん中に唐蕃会盟碑という有名な碑文があって、18 世紀に採られた拓本が一番古い。この拓本は、今は京大人文研にあります。で、今本物をみても、ほとんど削れちゃってる。
(金) 考古学は、特に鉄とかだと、どんどん錆びて崩壊していっちゃうんですね。戦前の白黒写真では鮮明なのに、現物はもう見るも無残ということがよくありますね。
(岩尾) それって、管理はどうしてるの?資料館ごとに違う?
(金) 資料館ごとに全然違います。本当は温度や湿度を一定にして管理すべきですけど、すべての所でできているわけではないですね。
(荻原) 私は、壁に書かれた当時の落書きを読むことがあるんだけど、現地で100 年ぐらい前にヨーロッパの探検隊が撮った写真が一番いいんですよ。今現場で見ると、もう壁が崩落してたり、あとから人が上書きしてたりして。
(岩尾) 敦煌莫高窟でも修復のときにコンクリート入れたりして、落書きがなくなっちゃうことがある。
(荻原) だから、できるだけ早い時に写真とるなり記録とるなりしていくべきなんだけど。
(岩尾) 文献学ではデジタル化してからの公開が進んでいるけど。考古学はどう?
(金) デジタル化で公開なんて、ほとんどされてないですね。どうしても自分で見たいんですよね、それぞれが。
(荻原) わかりますね。
(金) 報告した人は、出せる情報を全部出したつもりでも、あとで研究する人は、見たいところが全然違うんです。でも、例えば史跡に指定されて、重要文化財とか国宝とかになってくると、自分で手にとって見るのは困難になります。そうなると、もとは学術調査で見つかったものであっても、学術的には利用が難しくなって。
(荻原) 骨董品化するのですよね。
(金) 美術品なのか学術資料なのかっていう…。
(岩尾) そうなってくると、逆の問題が出てくる。偽物問題ね。契丹なんてまさにそうじゃない?
(武内) いやあ、ひどいですよ(笑)。
(一同) (笑)
(武内) 契丹の墓は副葬品が非常に高価である場合が多いので。金に契丹文字を彫ったものがオークションで出ることもあったようです。
(岩尾) オークションで出る?
(武内) 幸い、契丹の偽物は、見分けるのは簡単ですね。大体どこかのわかってる資料からコピーしてるとか、その程度の質なので。
(岩尾) それはどんどん、いたちごっごになるわけでしょ?向こうがもっと本物を知るようになって、研究者と結託していくと、より精巧な偽物が(笑)。
(荻原) 結託する研究者っているの?
(岩尾) いると思うよ。中央アジア出土写本は、初期はつまらないのが出てきたけど、だんだんいいのが出てきたわけだから、あり得るんじゃないかな(笑)。
(武内) 確かに、本物の新しい出土資料に対して、これは偽物に違いないとか、そういうことを言う人も出てきてますね。偽物がたくさん出回りすぎてて。
(岩尾) 偽物と言えば、考古学(笑)。
(金) いや、同じ偽物でも、雰囲気違いますね。例えば、刀だと、骨董品として流通させるなら、完全な形の方がいいんですよ。刃と柄の部分をつぎはぎして、それぞれは本物だけど、全体としては偽物みたいなやつがあったりします。
(岩尾) その偽物、本物クラスのものでしょ?研究対象にはなる?
(金) はい。ただ、出土時の情報がないので、学術資料としては、参考資料ぐらいに落ちちゃう。
(荻原) 出土時の状態とか地層とかが不明だと、意味がないことが多いよね。
(金) はい。その情報があることが重要なんで。出土情報がわかったら最高なのになあってやつが美術品として流通してたり。
(岩尾) この問題はあるよね。マーケットに出たやつの扱いが一番難しい。
(武内) 契丹だと、新資料が最近たくさんあるんですけれど、アンティークショップとか私立の博物館にあるのが報告されることも多いんですよね。
(岩尾) チベットは、出土品らしきものが出てくる、そういえば。
(荻原) 木簡?
(岩尾) 木簡じゃなくて、モノ。中国から金銀器とか織物とかが出てきて、スイスやアメリカの財団が買ってたりする。すると、写真は見たことがあるけど、直接には研究ができないんですよね。
(荻原) 中国、今、開発激しいでしょ。開発の際に墓誌とか装飾品とかが出てきたり。
(武内) 契丹は、もう90%の墓は盗掘済みだって言われているぐらい。
(金) これはひどい(笑)。
(武内) 昔は、墓誌は捨て置かれることが多かったんですが、今は墓誌もお金になるので、持っていくようになってしまって(笑)。
(岩尾) 中国の機関が買ったりしないんですか。
(武内) 今、買っているところがあるんですよ。だから、偽物を作る人も出てきちゃってという感じですね。
(荻原) 考古学だと、盗掘されたら、もう最後でしょ?(笑)。
(金) 盗掘されたら、そうですね。文字の情報もないので、本当に本物かどうかがよくわかんなくて、使えない資料になってしまいます。
(岩尾) それは、カーボン14 とかでわかんない?
(金) 例えば、古墳時代の鋳銅製品だと亜鉛が入っていないので、精巧でも亜鉛が出てきて偽物だとわかるということはあります。逆に、そういう精巧なやつらがいるから怖いですね。
(荻原) 文書もそうでしょ。オリジナルをコピーして、書いてある内容は本物だけど、文書自体は偽物という。
(岩尾) で、本物のほうは、もうなくなっちゃうとかね。
(荻原) 出版された写真をそのままスキャンして、汚い状態にして売り出すということがあるでしょ?
(岩尾) そう、本物の紙を使って書くとかね。
(荻原) 自分が出版した断片が、紙に何回もコピーされて、ある博物館に渡って、それから私のところに話が回ってきて「研究できるものであれば研究しても構わない」といわれて、見たら、「あ、自分が読んだやつや」って(笑)。こんな形で活用されるかと思いながら。
(一同) (笑)