シリーズ白眉対談16「言語と記憶」(2019)

記憶をつなぐ

(田中)天野さんはよく言われると思うんですが、神話の世界、1000 年を超えて継承されなければならない話というのはどういうものかというのと、記憶としてどうしてヘビやタカじゃないといけないのかと、関係があるような気がして。日本の小さな共同体の中でだけ伝承されているものから、天野さんが研究されているような文明を支えている物語まで、どのレベルにも、「この姿の神様」とか「女性と男性」とか、一定の決まった形が残るのが不思議だなぁと思っていました。特に天野さんの場合は言葉遣いも研究されているから、同じものを語る時の変化も見ておられるんですよね。
(天野)インドの場合はそのあたりがちょっと特殊かもしれなくて、ヴェーダ文献を数百年かけて作って、完成した時に完全に固定したんですね。これは一言一句、音一つも変えずに語り伝える、という方針にしたわけで、そのために全ての音を分類して列挙した。音便の法則を徹底的に研究したり、知識とともに完全な形で語り継ぐということをやった。かなり早い段階でそれをやって、皆で勉強するという文化ができていた。紀元前 1000 年から数百年ぐらいだと思います。
(平野)その頃からずっと変わってないんですか。
(天野)変えてない。変えないためのありとあらゆる工夫がされています。
(平野)すごいな。実は誰かが変えてるということはないですか。
(天野)インドは変えるという習慣はなくて、注釈をつけていく。聖典そのものは変えちゃいけないんですけど、それに対する解釈を書いていく。次の世代はそれを踏まえた解釈を書いていく。注釈の注釈の注釈……と、増えていくんです。インドでバラモンは今日に至るまで非常に強くて尊敬されているわけですが、そのもとにあったのは、彼が完全に暗記して覚えているということへの尊敬だと思います。それが今日まで続くインドの社会を支えてきた。共通の神話を持って強い形で記憶としてつないできたというのがあります。
(鈴木)口頭ですか。書き言葉じゃなくて。
(天野)そうです。
(鈴木)口頭伝承ゆえに伝わりにくくなったり、間違いを許したり、全然違うものができて原型がなくなることはあるんですかね?
(天野)音自体に意味がある、音に力が宿っていると最初の頃から考えられていたので、正しい発音に正しい意味が宿るとされてきました。間違った言葉で神様に語りかけても答えてくれない。厳しく伝承が守られてきていますね。彼らはインドに入ってきて先住民がいる中に浸透して上位階級になっていく過程で、自らの持っている歌を歌うことによって社会を作ってきた。暴力もあったとは思いますが、自分たちがヴェーダを持っていてそれを唱えることで皆が支配下に入ってきたという認識なんです。これを、ヴェーダの価値を高めるための与太話とは、私は思っていなくて。すごく厳密な言葉遣いで複雑なサンスクリット語を使いこなして、素晴らしいものなんです。それを朗々と詠める人がいたそのすごいインパクト、それが共通の記憶になった。
(田中)ここで一つ、記憶を塗り替えるっていうのはもはや SF 映画の話ではないと。意識を塗り替える効果のあるようなインプットができる。
(平野)単純にいうと、網膜に発現しているような光受容器を脳内に発現させて光を感じさせる。情動の中枢を叩けば嬉しくなっちゃうし。
(田中)何らかの経験を、嬉しかった記憶としてインプットできるということですね。ルソーは 18 世紀のフランスの哲学者で『言語起源論』という本を書いたんですが、一番知られている『社会契約論』と結びついた、一種の科学(人間科学)のつもりでやっていました。当時のヨーロッパで言語の起源は人間の起源に関わるものとして流行っていたのですが、ルソーは鳥などの声との結びつきに注目していました。今回改めて読んでみたら、音楽が言語の起源だと主張していました。彼自身も音楽をやっていて、ドミソとかの和音でなく旋律が大事だといっています。旋律が言語のもとになっていると。旋律は情念を動かすから。和音は反応、旋律は情念。
(平野)これも一つの説ですが、情動と感情の区別をどうつけるか。私たちは楽しいから歌うわけじゃなくて歌うから楽しいんだ、という言葉がよく使われています。身体のレスポンスがあって初めて感情が生まれる。情動と感情はそれで区別がつくんじゃないかと思います。じゃあ情念っていうのはなんだろうと。
(天野)でも楽しい悲しいだったら感情なんですよね。
(平野)そうそう。でもその場合はある程度はレスポンスを伴ってほしいですよね。 (田中) 一言に知覚といえなくて、細分化して整理して考えると面白いのがわかりますね。
(天野)じゃあなんでそれが言葉につながるんだろう。
(田中)ルソーの場合は人間を徹底的に他の生き物から分けて考えていたので、情念はただ単に反応を引き出すのではなくて、悲しいとか嬉しいとかという状態を相手に伝えることだと。
(天野)感情を伝えるところが、人間の 他の生き物との違いだということ?(田中) そうですね。そこにいわゆる観念を互いにやり取りする回路を見ているんですね。ただ単に危険だというのではなく、その危険生物が持っている意味について共有できる回路を人間は生得的に持っている、それが言語だと考えていたようです。人間か動物かとか文化か自然かとか、そういう分け方はあまりにも荒くて使えないし、細かく分けていってみると逆につながることもある。
(鈴木)これまでは人間を理解するために人間と類似した性質を他の動物が持っているかどうか、人間と他の動物の違うところはどこなのかを探究してきたけれども、その生物にはその生物の生活スタイルがあって、それは人間と違ってもいいし、もしかしたら彼らは人間よりも複雑で人間ができないことをできるかもしれない。それを理解することも、人間を理解することにつながるんじゃないかと思っています。
コガラは秋のうちに木の実を貯めるんですよ。1 日のうちに 500 以上の木の隙間に隠して、場所を全部覚えていて、お腹が空くとそこに取りに行く。それが生きる上で必要だからできてしまうんですよね。いろいろな生物の複雑さを平等に見ていくことで、人間を客観的に見られるような気がします。
(田中) おっしゃる通りだと思います。
今おっしゃったことがすごく大事なのは、人間であることを相対化できる視点が出てきた時に、場合によっては人間はすごいと信じる必要はないと結論して、その中である一定の人間については価値を置かなくてもいいではないか、なぜなら他の動物もすごいんだからとか、あるいは逆に、人間は絶対的なのだから動物と一緒にしないでくれとか、危なっかしい方向に向かってしまう。それで 20 世紀は人間についての学問はいろんな壁にぶつかっていた。さっきの天野さんの話を聞くだけでも、何千年にもわたって同じことを守り続けることが無意味なのかどうかということと、それが起こっていること自体が面白いということは、全然別でいいはず。鈴木さんがおっしゃられた通り、シジュウカラはシジュウカラで全然違う世界がある。これらは両立することだと思います。人間主義とか反人間主義とか自然主義とか文化主義とか、20世紀的な二項対立は特に思想の分野ではときに危険な概念だと思います。視点が複雑化している、それを処理する言葉の方が対応しきれていないような感じがあって、先ほどお話があったようにもっと複雑化させてそこに関与している要素が対立しているだけではない、質の違うものが同時に作用しているのを、実際に研究者の方々は知っておかなきゃならない。そうすれば、単純に対比だけで語れないものについても、ふさわしい言葉が見つけられるんじゃないかと思います。私も今まで自分が使っていた言葉だけじゃ対応できないこともあるので、今後も白眉の皆さんの研究を聞いて、ふさわしい言葉を見つけていきたいと思います。今日は皆さま、長時間にわたり、ありがとうございました。

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