シリーズ白眉対談08 アカデミズムと社会(2015)
文系廃止論
(司会) 人文学の話題に関連して、最近世間で言われている、いわゆる「文系廃止論」というものがありますが。
(花田) 完全にどの大学からもなくすってわけじゃないんでしょ?
(司会) でも徐々に攻め込まれるっていう感覚はありますよね。
(江間) 国公立大学は理系に特化しちゃって、文系とか芸術関係は私大がやりましょうというものですよね。
(藤井) その学問が大事かどうかを問うてるんではなくて、国はもう維持できませんよっていう話なんでしょ、平たく言うと(笑)。
(江間) お金をどこに注ぐかって言われて、“理系に注ぎます”っていうような流れですよ。
(花田) 文系を廃止しなかった場合は、 “文と理の両方を削っていきますよ”と。 そういうことでしょ。
(江間) それって、脅し?(笑)。
(一同) (笑)
(花田) 文系学問を私大で十分にやっていけるんならいいのかもしれないけど、 この点はどうなんでしょうね。
(司会) 大学改革に関する政府の政策はいくつかありますけど、そのなかで大きいものの一つは、「ミッション再定義」 というものですね。各大学に己の強みをどう活かすか、今後5年なり 10 年なりのプランを提出しなさいと求められている。
(花田) 文系の学生そのものがいなくなっても、一般教養では文系の授業はできるんですか?
(藤井) 教養科目まで廃止するつもりなのか、研究をしなくていいということなのかということですよね? 研究ができなくなった場合でも、おそらく、 教養の授業はできるでしょうね。
(花田) 理系だけにしちゃうと、まぁ一般的教養の授業だけでいいから、教員数も減らせるということなんですかね。
(藤井) そういうことなんでしょうね。 しかし、一方で“教養やろう”っていう動きがありますよね。それには文系が不可欠でしょう。
(江間) 現在いろいろな科学技術に関する問題が出てきているから、科学技術の研究者も文科系の素養が必要だとする考えもある。そういうところとの整合性はどうなんだろうなと思いますね。
(司会) 文系廃止論者側も一枚岩でなくて。
(一同) (笑)
(藤井) 2期の西村周浩さんと話してて、 “そもそも文学部ってそんな金かかってないよね”っていう話題になったんですよ。人件費はかかるけど、あとは本買うくらいなんで、それは大学全体の財務を圧迫するほどではないでしょう。 そこをあえて削んなきゃいけないっていう意味は、結局財政的な問題ではなく日本における大学の存在意義っていうか、要するに理系さえあれば、それでもう十分大学なんだっていうことですよ。文系廃止論はお金の話ではないなという気がします。

人文学の価値とは
(江間) 最初の話題に関わりますが、“文学が役に立たない”って思われるのが問題なんじゃないかなあ。学問の価値について、それが“実践的であるか” とか、“すぐ役に立つか”を求められるわけですよね。ちょっと前に言われた G型L型大学2 の話で、文科系はシェイクスピア研究や文学研究じゃなくて、 観光地の案内ができるという即戦力を身に着けるべきだという議論がありましたけど、シェイクスピアをやることだっていいじゃないですか、別に(笑)。
(花田) よき人間関係を築くために。
(藤井) それだったらいいんじゃないですか。例えば“感情を学びましょう” とか“人の感情はどうやって生まれてるのか”って。一つの説明原理はもちろん脳科学だろうけども、その現象を理解するって意味では、例えばシェイクスピアがすごく大事で、恨むっていう感情は、現代の僕たちが人を恨むっていう感情と、例えば中近世のイギリス人の恨むっていう感情はどう違うのかと。そういう違いを理解することによって、自分たちの恨むっていう感情をより理解できるでしょ?
(花田) それもありますね。何か毎日がちょっと楽しくなります。
(江間) だから、それを役に立たないっていうふうに言っちゃうからよくない。
(司会) ものすごいハードボイルドな意見として、人文学こそが人間の価値の根幹を作っているのだとみるのはどうでしょう。
(花田) ま、そこまでは言わんけど。
(一同) (笑)
(司会) いや、違うんですよ。価値の根幹を作るというのは、どの学問にどういうリソースを配分するのか、あるいは日本っていうもののミッションをどこに定義するのかということを決めるための、基本的な問題を考える装置としての機能も、人文学にはあると思うんです。
(藤井) 人文学にはそのメタな価値観を決める機能があると思います。最近、山極総長の就任インタビュー記事が出ていて、“いろんな学問大事ですよね”と言われていました。優しい方だからそう言ってくださるんだと思うんだけども、 例えば“ラテン語とかできたら、すごく面白いじゃないですか”と言われているんです。わかんないことやってるのが大学だから、そこから何が出てくるかわからないけど、“やることが大事なんだ”みたいな考え方もあると思います。 でも実はそれに加えて、人文学ってもっとラディカルだし、何か人間の価値観とか、生きていく意義とか…
(花田) そんなに肩肘張らないでもいいと思うんですよ。
(藤井) いやいや、人文学には積極的な存在理由がありますよ。
(花田) 僕ら本屋さんに行って、例えばローマの歴史の本とか買えるわけですよ。でもそれは、それをちゃんと原典で読める人たちがいるからこそ僕らに回ってくるわけですよ。岩波の本とかで、ちゃんと“原典から訳しました” みたいのが、日本だったら手に入るわけですよ。
(藤井) だからその岩波の日本語版から得られるものは、ちょっと楽しい人生のスパイスなのか、そうじゃなくてメインディッシュそのものなのかと言うことです。
(花田) そういうのが手に入るのは、そういうハードボイルドの人たちがいるおかげなんですよね。
(藤井) いやいや、その手に入るのはわかります。それを楽しいと思う世界があるのもわかるけども、それがあなたの人生のスパイスにすぎないのか、それとも人生に不可欠なものなのかって話なんです、要はね。
(花田) スパイスのない人生は、あり得ないでしょうね。
(江間) 日本の政策は、理科系が中心で、 科学とか技術とかが先導してるようにみえる。でもその一方で、プライバシーの問題、安全安心の問題、倫理の問題などがあるわけですよね。そういう中で、文科系の人達に倫理審査委員に入ってもらって、手続き論的あるいは道具的にかかわるだけでよしとするのか。 むしろそうではなくて、どのような生命観があるのかとか、昔の思想と比較するとどういうことが言えるのかを論じながら、人文社会学者が理系研究者と対等に、あるいはむしろリードするかたちでかかわるべきだという意見もあって、どう互いにかかわっていくのかを人文学も意識的に考えなければならない時期になっているのでしょうね。