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(司会) 皆さん何力国語くらい、そうですね、その国に行ってレストランで注文できるぐらいのレベルだとどれぐらいいけますか?
(西村) それは相当ハードですね。
(志田) 私は全然だめです。研究に必要な言葉の数で言うと、例えばインド仏教研究では人によっては古典語としてのサンスクリットとチベットと漢文とパーリ、さらに研究書で使用される西洋の諸言語が必要とされているようです。私の専門であるバラモン系の教学は、古典期にそれほどインド国外に伝播しなかったこともあり、必要な言語はもっと限られますが…。
(司会) 勉強されるって意味では5、6カ国語勉強はされるわけですよね。
(西村) ものになるかどうかは別として、かじるっていう点で言うと言語学を専攻してる人は恐らく多くの人が20ぐらいいくと思うんですけどね。だけどものになるのはごく僅かです。でも中には言語の天才みたいな人がいるんで、そういう人はかなりのものに手を出して、なおかつそれが割と血肉に。僕はもう片っ端から忘れていってしまったんで、ご期待にそえるような実質的な数は言えないですね。
(司会) かじっただけでも20ですか。
(中西) シュリーマンているじやないですか。40歳くらいから言語やりだして、数か月に1言語ずつぐらいやったとか。だから僕は40になってからでもできると言い訳して今さぼってしまっています。
(司会) 5、6でも凄いなと思いますけれど。そうすると、3人の特徴で外国語やテキストを対象にしているという意味では、何か共通で幅広く説明できるような理論なりが、出てきてもおかしくないような印象を受けるんですけど。
(志田) たしかに「ことば」を対象としているという点は共通していますが、分野毎に方法論は多様だと思います。これに関連して最近の下田正弘先生の論考では、人文学とは広く「文化」と称されるものを対象としていて、そして「ことば」は文化の一要素なわけですが、ここでいう「ことば」を文字資料に限定しても、それにどう接するかということで、方法論的に歴史学的・文献学的・行動科学的と大きく三つに分けられると論じられていたと思います。私の分野は文献学的性格が強いですが、聖典であれ哲学文献であれ、通時的に共有されてきたテキストとその表象とに主に焦点を当てるという点で、「いつ、どこで、誰が、どういう理由で、何をして云々」という事実を詳らかにする歴史学的手法とは多少態度が異なるとされています。必ずしも歴史的事実を語っているわけでもないテキスト自体を研究対象としているという点で、「先人の妄想」の研究じゃないかと言われれば、そういう側面は否定できないのですが…。それから、西村さんのご専門である言語学はやはり「ことば」を主な対象としているとはいえ、その立ち位置はまたちょっと別になると思いますが、いかがでしょうか。
(西村) 幅が広いですね、言語学は。テキストに密着するものもあれば、そこから離れながらというのもありますしね。
(司会) すぺての言語に共通する抽象的な理論みたいなものはあるのですか?
(西村) そういったものを構築しようとするような領域もありますね。
(司会) なるほど。そうなんですね。
(西村) 人文学の学者たちの間の一つの理想型としては、一次資料は一次資料で読めるからこそ研究できるという、そういう厳格な立場っていうのもあるんですよね。なので、翻訳を使うのは邪道だという考え方があるんです。確かに一次資料を読みこなすことがテキストの中身や文化的背景を理解するには、最も正当な手段だとは思うんですけども、それ自体が非常に大変な作業で…。1人の人間がカバーできる範囲というのも限られていますよね。たとえある程度絞られている分野であっても研究書というのはどんどんどんどん増えていきますから、日本人が例えば英語、ドイツ語、フランス語で書かれたような本や論文を、次々読んでいき、なおかつ一次資料も読んでいくっていう作業はかなりの労力を要すると思うんです。そうすると自分の領域で手一杯という状況に陥っている可能性は高いですよね。人文学の研究スタイルとして、チームプレイはあんまりやりませんが、そこをあえて研究者同士で対話をしっかり行っていくか、あるいは専門的な研究においてもある程度翻訳を許容していくっていう状況にしていかないと、先ほどのスペクトラムの話に戻りますと、人文学の中でも1本1本切れたままという状況が続いていってしまうと思うんですよね。
(志田) 一次資料というものを追求していくと、碑文や写本に書いてある文字の羅列に辿り着くわけですけれども、しかし伝承中での誤写の可能性も考慮すると、写本の読みすら疑って、祖本の読みを推測することがあります。ただし、それを正当化するためには、別の外的証拠が必要です。最近、1年以上かけた私の研究では、ある哲学文献の中のあるーつの長母音がもともと短母音だったんじやないかという推察、その1点だけに言語学的な知見も入れつつ頑張ってみました。私としては、研究スタイルとして好きなんですけども、ほかの分野、例えば自然科学系の方の視点から見たときに「何をしてるんだ」ということになるのかもしれません。
(西村) 同じ人文学者としては、ああよくやったなと思いますよ(笑)。
(中西) テキストクリティークがないとそもそも研究が始まらない(笑)。
(西村) そう、それは本当にすばらしい発見だなと思うんですけども、やっぱりそう思わない人もたくさんいるわけですよね。でもいいじやないか、という強気な姿勢もありだとは思うんですけど、本当にそれでいいのか…。
(司会) そういうテキストなり一次資料を管理する専門家みたいなってのはいないんですか?
(西村) 志田さんがおっしゃってた一次資料っていうのは本当に写本の類で、僕が言った一次資料というのは少しゆるめで、ラテン語の場合、誰かがテキスト校訂をして、ある程度解釈も入れながら、という段階のものも広く指しうると思います。そういうものはかなり電子化されています。なのでそれを読みこなす能力があれば、いいんですけどもね。ただそうするのにも相当な鍛錬と時間が必要になってくるんで、それにプラスしてさらにほかの分野のものもってなると、なかなか…。