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(司会) お三方は研究上の話題について、一緒にお話されることもあるんですか。
(西村) 研究室が相部屋の志田さんとよく話してるのは、人文学の現状ですね。つまり相対的な価値の低下っていうのが、危機感としてあるんですけども、中西さんはその点に関してどういうふうに思われます?
(中西) 同意します。価値、低下してると思いますね。
(西村) それはどのあたりで感じます?
(中西) ネットで検索すると、文系、文学部は必要ないみたいな言説が溢れかえってますので。(一同)(笑)
(西村) そう言ってる人たちの理由というのはどういうところにあるんですかね?
(中西) やっぱり人文学が直接的な役に立たないっていうところなんでしょうね。日本は物作りに秀でていて、科学技術立国であるという理念があって、だったらその得意の分野である科学技術を伸ばしたほうがいいに決まっているという考えがあるんじやないでしょうか。それで文系なんて何をやってるかよくわからんという意見が出て来るんでしょう。
(西村) 僕個人のそれに対する反論としては、僕は物作りっていうのは自分の心を技術に託すということだと思っているので、心の内面の育成ということに、やはり人文学は貢献できると思うんですよね。技術だけ磨いてればいいっていう問題ではないと思うので、そこは反論の余地はあると思うんです。じゃあ、どういう具体性をもって内面の研磨に貢献していくかってことはまた別の課題ですけどね。
(司会) 今回、『白眉プロジェクト要覧』の研究者詳細を確認すると、西村さんが自分の対象にしていらっしゃることの文化的背景に憧れや畏れを失ったことはありません、って書いてあるじゃないですか。どの分野でも、文化的な背景への憧れは必要だと思います。僕の専門領域である医療政策でも文化的な背景が政策に影響与えてるところありますから、その源流から解き明かすときに、共通言語としての人文学というのはかなり重要だと実感します。
(志田) 司会の方が擁護派なので、あえて人文学に批判的な立場からの詰問を想定しますと、文化的なものの重要性は認めた上で、しかしそれは趣味の領域であって、公の研究資金を入れてするべきことではない、という意見があると思うんです。私が学生時代のサンスクリットの授業には、とある企業の重役クラスの方が参加されていました。風呂敷に資料を入れて、高級車で乗り付けて、並の修士よりはいいぐらいの読みをして、そしてサッと帰られていました。当時はただかっこいいなと思ってたんですけど、多分その接し方はインド古典に対して趣味として接してるわけですよね。それはいいけれども、一方でもしも公の資金を使うのであれば、妥当な方法論で提供された新奇情報が批判的に検証されているのか、という点は外からは見えにくい部分なので、疑念があるのかなと思います。あるいは、アウトリーチ的な方向の努力も要請されるとは思いますが。
(西村) アウトリーチなどの活動を通して期待に沿おうと思うと、これはやや高飛車な言い方かもしれないですけども、人文学は人間の営みに関することをやっていながら相当基礎的なところから話し始めないと、恐らくオーディエンスの多くが途中で路頭に迷ってしまうと思うんですよね。例えば、志田さんの場合いきなりサンスクリット語の話とか、僕ならラテン語、中西さんだったら中国語とかアラビア語とかっていうところにいきなり入るとまずいと思うんですね。でもそこから離れてしまうと、一気に大衆に迎合するような気分になってしまうというジレンマがあるんですよね。オーディエンスに対しても失礼。なので、われわれも満足できて、相手も満足できるっていうその接点はどこなんだろうかって最近よく考えますね。