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「あることがどんなに容易であるかは、それを発明した人とそれに到達した人が知っている」― ゲーテ
筆者の専門分野は物理化学です。具体的には物理化学的手法を用いて、大気環境や生体内で起こっている現象を分子レベルで解明しようとしています。物理化学という言葉は化学を専攻されていない方にはあまりピンと来ないかもしれません。そもそも化学とは「何か変化をするもの」すべてを対象とする学問ですが、物理化学はその変化の背後に潜んでいる本質を明らかにする学問と言えるでしょう。現象の「向こう側」にあるものを探る学問とも言えるかもしれません。日本を代表する物理化学者には日本初のノーベル化学賞を受賞された故福井謙一先生がおられます。福井先生のフロンティア軌道理論はまさに化学反応という現象の向こう側にある本質を明らかにした実例であると言えます。筆者は学部での物理化学の授業や学生実験に興味を持ち、福井先生のノーベル賞受賞を契機として作られた分子工学専攻に進学しました。そこで物理化学的手法を用いて大気環境で起きている現象を解明しようとする研究を行ってきました。学位取得後、カリフォルニアエ科大学での4年半の博士研究員の経験を経て、現職に至ります。
最近は気相と液相の境界にある気液界面で起こる現象を分子レベルで解明しようとする研究を行っています。その中の一つに「ホフマイスター効果」の解明というものがあります。ホフマイスター効果は溶液中のイオンの種類によってタンパク質の沈殿のしやすさがそれぞれ異なるという現象として、19世紀後半にHofmeisterによって報告されました。生体内での分子集合やタンパク質の構造変化、大気中での液滴の反応など、様々な現象に深く関わっているにもかかわらず、発見から125年たった今でもそのメカニズムはよくわかっていません。ホフマイスター効果のメカニズムの解明が進んでこなかったのには、二つの理由があると考えられます。―つはホフマイスター効果の謎を解くカギは水の界面(タンパク質-水など)におけるイオンの挙動にあるにもかかわらず、水の界面に存在するイオンを選択的に検出する手法がなかったため。そしてもうーつは装置の感度の問題から静電相互作用が無視できるような低濃度(10-6M)での実験を行うことができなかったためです。筆者は独自に考案した水の界面厚さ約1ナノメートル(10-9メートル)以下に存在するイオンを高感度に測定することのできる新しい実験手法を用いて、ホフマイスター効果のメカニズムを探る研究を行いました。その結果、空気-水界面においてイオンは特定の深さの層にそれぞれ選択的に存在し、また極めて遠く離れた(イオン自身の大きさの数百倍の距離)イオン間で相互作用していることが初めて明らかになりました。また空気-メタノールや空気-アセトニトリルなど水以外の気液界面で同様の研究を行った結果、長距離のイオン間相互作用は液体界面の水素結合ネットワークを介して起きていることが初めて明らかになりました。本研究結果は大気化学や生化学など様々な分野に重要な影響を与える可能性があります。
白眉プロジェクトでは自由な環境の中、研究にとことん専念することができます。物理化学で大事なことは、じっくりと自由な頭で考えること(朝から晩まで、時には寝ているときにも)、そしてそれを実証するために根気強く実験することだと思います。上記のような研究成果は白眉プロジェクトでなくては出すことができなかったと思います。白眉プロジェクトと受け入れ先の生存圈研究所のスタッフの皆様に心から感謝いたします。
「思索する人間の最も美しい幸福は、探求しうるものを探究しつくし、探求しえないものを静かに敬うことである」このゲーテの境地は筆者にとってまだ遥か彼方、といった感じですが、これからも「探求しうるもの」を地に足をつけてしっかりと探究していきたいと思います。いつか「向こう側」に突き抜けるために。
(えなみ しんいち)