夜にも奇妙な研究現場 (東島 沙弥佳/2024)
第12 期 特定助教 (総合博物館) 東島 沙弥佳
私はさまざまな観点からしっぽの研究を進めている。ヒトという生物にはしっぽがないくせに、なぜ人ならではの文化表現にはしっぽがたくさん登場するのだろう。我々が生物学的および人文学的にどのように「ひと (ヒト+人)」になったかを知る鍵がしっぽだ、というのが私の信条である。そのため、私の推し進める「しっぽ学 (Shippology)」には多様な研究アプローチが必要となる。たとえば、生物学的なヒトがいつ、なぜ、どのようにしっぽを失くしたのかを知るためには、基礎的な知識として形態学や解剖学、すなわちしっぽ周りにどういう骨があり、どんな風に筋肉がついているのかを把握する必要がある。そう、骨を測ったり遺体を解剖したりするのである。

私はこの、動物の体に触れるという作業が大変に好きである。骨や筋肉は、大変に雄弁だ。真摯に向き合っていれば、多くのことを教えてくれる。彼らからのメッセージを受け取るにはそちらに集中せねばならず、意識が一点に向かって深まっていく様子は座禅や茶道の点前にも通じるところがある。骨の計測や解剖が楽しいという感覚は、同じような研究をしている人達ならば容易に理解してくださるものだと思うのだが、どうやら一般的ではないらしい。骨・遺体が研究対象である、と話すと多くの方は、ぎょっとして上体を少し後ろに反らすのだ。
まして、それが「好きだ」などと宣おうものなら、今度は足元が一歩後ろへ下がる。なぜそのような反応が返ってくるのか、まったく理解できなかったかつての私は、相手が下がった一歩分さらに踏み込んで「なぜですか?」といちいち尋ねてみたものだ。そうすると大抵「だって、そんなの怖いじゃないですか」という答えが返ってくる。もう少し突っ込んで尋ねてみてはじめて、その「怖い」というのは「お化け」的な怖さのことなのだと私は知った。
このように普段の素行が悪いからなのか、あるいは解剖という仕事をしているからなのかは判然としないのだが、知り合う人間の多くに私は、血も涙もなく怖いものもなく、むしろ嬉々として動物の体をいじくりまわす狂人だと思われている節がある。嬉々として動物の体をいじくっているのは間違っていないし、私だって人並みに怖い思いをしたことはある。だが、よくよく考えてみたらお化け的なものに対する感受性はかなり低い。そしてそれは、この仕事をするのに意外と役に立っているのかもしれない。