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筆者の専門は言語学であるが、話者のいない死滅した言語の研究に従事しており、歴史言語学の領域に属する。研究対象は、トカラ語を中心とした、中国新疆ウイグル自治区発見のブラーフミー文字文献である。トカラ語は印欧語に属し、トカラ語 A 及びトカラ語 B と称される二つの言語よりなるトカラ語派を形成するが、トカラ語Aはショルチュクを中心にトルファンに至る地域の、トカラ語Bはクチャを中心に西のトゥムシュクから東のショルチュク及びトルファンに至る地域の仏教寺院遺跡で写本断片が発見されている。現在、ヨーロッパ及びアジア地域の図書館・美術館等に所蔵されるトカラ語文献は約11000点の断片に及ぶとされ、使用される文字の類型と歴史的背景から、トカラ語 A は 7~11 世紀頃に、トカラ語 B は 5~11 世紀頃と推定されている。文献は宗教文献と非宗教文献に大別され、全体の9割以上を占める宗教文献の殆どが仏教文献であり、非宗教文献には寺院出納文書や契約文書だけでなく、歴史文献や手紙なども含まれている。また、大部分が紙文書であるが、木簡・壁面・樺皮・陶器・塑像の型などに書かれたものも存在する。なお、この言語の後裔とされる言語は、発見されていない。
トカラ語は印欧語に属するため、文法構造の解明には印欧語比較言語学からの貢献が大きく、また研究者の多くが印欧語比較言語学畑の者である。そして、印欧語比較言語学に従事する研究者は、サンスクリット語・ギリシャ語・ラテン語・ヒッタイト語・ゴート語・古代教会スラブ語等といった印欧語を習得しているだけでなく、研究対象とする言語で書かれた文献を文献学的に処理できることが期待される。
トカラ語についても同様で、印欧語比較言語学の素養だけでなく、トカラ語文献に対する文献学的素養も、それに勝るとも劣らぬ程重要である。しかし、この文献学という点において、トカラ語にはその他の印欧語とは異なる事情が存在しており、研究に大きな影響を与えている。それは、トカラ語文献が「新疆ウイグル自治区で発見された仏教文献」という点である。即ち、トカラ語文献には何よりも仏教文献としての理解が求められ、サンスクリット語・パーリ語・漢語・チベット語や同じく新疆ウイグル自治区で発見される古代ウイグル語・コータン語等による仏典を参照しなければならず、また仏教の教義や戒律等に関する知識も要求される。さらに、残された文献は零細な断片であり、同一の写本に属していた断片が離散していることも普通である。言語学者は研究対象の言語を分析することが研究の柱だが、このような形で残された言語を扱うには、言語構造の分析の前に、残された断片を文献学的に処理し、言語学的分析に堪え得るテクストを作成しなければならない。
現在、筆者がトカラ語研究において看過ならないと思うのは、このような地道な文献学的研究が軽視されることがある点である。トカラ語Bの辞書を例に述べよう。ある著名なトカラ語学者が1999年にトカラ語Bの辞書を出版し、改訂増補版が 2013 年に出版されたが、この間における研究環境の進展を反映し、初版より多くの語が収録された。これは、公開された断片の画像と転写を利用して、編者自ら断片を解読し、その成果を盛り込んだことによる。ところが、筆者はこの辞書を利用する際に違和感を抱く語に遭遇することが少なくなく、その都度公開されている断片の画像を確認するが、基本的にこういった語は、編者の誤読に起因する架空の語である。また、仏教に関する知識不足に由来する奇妙な解釈も見られる。トカラ語文献学に精通した研究者であれば、このような直感も働こうが、そうではない研究者は、著名な研究者による辞書の記述を疑わず、研究を誤った方向に導きかねない。
筆者自身は、それぞれが得意とする領域からトカラ語研究に貢献すれば良いと考えるが、文献言語研究の基礎は文献学にあり、対象言語の文献を正確に扱うことが前提となる。特にトカラ語のように、残された資料が零細な断片である場合は、何よりも文献学的基礎を固める必要がある。筆者はこのような考えに従い、トカラ語文献を文献学的に処理することを最優先し、断片相互の接合関係の確定や内容比定などを中心とした研究を行ってきた。これまでに、筆者は先行研究で指摘された語形が、別の断片との接合により、実際は誤った推定に由来していたことや、内容比定及び断片調査による従来の解釈の修正を通して、指摘されたことのない新しい語を発見したこともある。トカラ語文献を正確に解読し、解釈することは確かに難しく、筆者にしても、誤読をすれば、解釈を誤ることもある。しかし、文献学という基礎を欠いた文献言語研究は、学問体系の基礎そのものを掘り崩すということを、文献言語研究に従事する研究者は、常に意識して研究を進めたいものである。
「筆者によって戒律に比定されたベルリン所蔵トカラ語B断片THT1579」
「筆者によって王統記に比定されたベルリン所蔵トカラ語A断片THT1487」
(おぎはら ひろとし)