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コンピュータの中央演算装置や人間の脳には、論理回路素子やニューロンといった最小構成単位が宇宙にある星のように膨大な数が集まり、複雑なネットワークで結ばれながら存在している。膨大な数の要素が集まるとどうなるかを理論的に明らかにするために、無限個の場合の極限について解析をするのが自分の研究である。 一般の解析は極めて困難であるため、二つの流れが一つに合流していくような二分木にネットワークを制限した計算モデルである論理式を研究対象にしている。白眉の自己紹介(『白眉プロジェクト 2010』)で「小さい頃から宇宙や素粒子といった根源的な対象に…」と書いたが、小学校の時に書いた将来の夢に関する作文を読み返してみると「コンピュータに関する研究をしたい」と書いてあった。科学者の動機というものは、分野を問わず何かしら自分のルーツに関係していることが多いと思っている。コンピュータは自然ではなく人間の創造物と思われるかもしれないが、 その背後にある理論は人間の理解の範疇を超えており、脳や遺伝子を含めた計算にまつわる一般・抽象論に関しては、解明できない謎が数多く存在するのである。 自分のルーツに関する謎があれば、解明しなければ気がすまなくなるのが人間の本能である。以前、福岡にある父方の実家に帰り自分の先祖に関する記録を調べたことがあった。すると、なぜか自分の先祖が福島の会津地方から来たことを示唆する史料が見つかった。(分家元は喜多方にあるが武家ではなく、武家の家紋は曾祖父の母方と会津藩家老に一致する。)自分の本籍地は薩長土肥に挟まれた筑豊の山奥であり、はるか遠くの会津に縁はないはずで謎だけが残った。三国志などの歴史が好きではあったが、白眉で京都に来なければ幕末の会津・長州・薩摩による争いに関して詳しくなることはなかったであろう。白眉で花見をしたことがある東南アジア研究所の中庭や京大病院の白眉寮がある付近は幕末に会津藩邸があった場所であるように、京都には幕末の史跡が数多く存在する。御所のような広い場所でふらふらと無作為な散策をしながら、思索にふけるのが自分の研究流儀である。
遠く離れた筑豊と会津の位置関係
明治以降は男系が当たり前だが、昔の一部の武家の中心は女系であると仮定すれば、数々の不可解な歴史の謎に合理的な説明を与えられるかもしれない。白眉の日を開催してきた KKR 京都くに荘は昭和天皇妃の香淳皇后が育った久邇宮邸跡であるが、香淳皇后の男系と女系を双方辿れば中川宮と薩摩藩へとつながっていく。公武合体派の中川宮と会津・薩摩藩は、尊王攘夷派の長州藩と対立し、幕末の京都は火の海と化した。古くは倭国大乱の後に卑弥呼を共立し、戦国時代は織田、豊臣、徳川と変遷したが、土田御前、茶々、江姫と女系を辿ると一貫している。(自分が生まれた場所である母方の故郷は、 土田御前や濃姫と同郷だ。)実は、関ヶ原の戦いで会津藩は西軍の茶々側であった。一方、会津松平家の祖となった保科正之は徳川秀忠の子だが、江姫に恐れをなして隠した子であった。対立軸が複数混在する中で、双方と結ばれながらも対立しかねない複雑な板挟みの立場であったが故に、会津藩は京都守護職として孝明天皇から信任を得たのだろうか。 複雑すぎて全て書き切れないが、要するに二分木は一本道にはない複雑さがあり分析するのは極めて難しいのである。(これこそが計算困難性の真髄であるとも言える。)高い水準に達するためには、一つの専門領域に閉じこもって深く掘り下げていくことも必要であろう。一方で、遠く離れた場所を源流とする相異なる二つの流れが一つに合流していく先に、先人が到達し得なかった新しい領域が開拓できるのかもしれない。ただ現在行っている研究を継続したいという単純な望みが白眉を志望した一つの動機であり異分野のことは全く想定していなかったが、実際に初めてみれば人文社会系などの領域にも飛び出して思索を巡らしているのが、包み隠しのないありのままの姿である。
(うえの けんや)