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私の研究テーマは記憶学習のメカニズムの解明です。“記憶”というと、試験勉強の暗記などを思い浮かべる方が多いかもしれませんが、本来記憶とは動物が厳しい自然界で生存するうえで不可欠な能力の一つです。例えば、餌や水の在処、敵の特徴や一度遭遇した危険などを記憶する能力が備わっていないとすれば、それは致命的となります。さらにヒトにとって記憶とは私たち一人一人の人生の記録でもあり、心の基盤と言えるものであると私は考えています。ギリシャ神話においても Muse(芸術を司る9人の女神たち)は Mnemosyne(記憶を司る女神)より誕生しています。つまり、古来より記憶はヒトの想像力や精神活動の源と考えられていたことが覗えます。このように記憶の仕組みは古来より多くの哲学者・科学者を魅了してきた謎のひとつですが、私も学部生時代に記憶というものが心理学ではなく、自然科学の研究対象にもなり得ることを知って感銘を受けました。その後、米国留学を機にこれまでの研究テーマを大きく変えて、記憶研究の世界に飛び込みました。
私が現在行っているのは分子遺伝学を駆使して開発した遺伝子改変マウスを行動心理学やイメージング、分子生物学などの複合的手法により解析するアプローチです。記憶の研究に遺伝子改変マウスが取り入れられたのは 1990 年代初期と比較的最近のことです。当初は、ある特定の遺伝子が欠失したマウス(ノックアウトマウス)を作製し、それらの記憶学習能力を調べる行動テストを行い、任意の遺伝子と記憶学習との関連を示すという単純なものでした。しかし、この当時開発されたばかりのノックアウトマウスに着目した斬新なアプローチは瞬く間に世界中に広まり、この20年足らずの間に、より複雑で巧妙な仕掛けをもつ遺伝子改変マウスを利用するという方向に進んでいます。そこで、いかに研究に役立つ面白い遺伝子改変マウスを開発することができるかが、大きな鍵となってきます。しかし世間をあっと驚かす様な画期的なマウスの開発はもちろん簡単なものではなく、マウスの開発だけで数年間を費やした挙げ句、結局はうまくいかず断念せざるを得ないことも決して珍しくはありません(むしろ、そういうものの方が多いです)。私の場合も留学後、半年間程、新しいマウスのアイデアとそれを実現する為の分子的な仕掛けを考える日々を過ごしておりましたが、ようやく思いついたアイデアをボスに話したところ、私の拙い英語の説明を聞いたボスはオフィスを飛び出し、実験室にいた他のポスドク達に「Naoki がこんな面白いマウスを考えた!」と嬉しそうに説明し出したことは今でも憶えています。このマウスを使って、「何かを憶える時と、それを思い出す時に同じ神経細胞が活動しているのか?」という非常に素朴ではありますが重要で、これまで明らかにすることが出来なかった問題に答えたり、記憶を正確に長期的に保存する分子・ 細胞レベルでのメカニズムの一つを示すことが出来ました。
マウス行動実験室にて(筆者と手の平のマウス)
現在、私は医学部キャンパスの一角に実験スペースをお借りして、ポスドク研究員1名、マウスの世話を手伝ってもらう学生バイトさん3名とマウス300匹程(多いと思われるかもしれませんが、私の研究内容から考えると、かなり少ないです)という、ヒトよりもマウスの方が圧倒的に多い小所帯(?)の研究室を運営して、研究を行っています。これまでのように自分の研究のことだけを一日中考えていれば良いという立場から、 小さいながらも研究室の運営などにも力を注がなければならない立場に変わり、様々な問題に直面しながら新しい経験をさせて頂いております。「氏か育ちか」という言葉がありますが、これは「遺伝か経験か」という言葉に置き換えることができます。片方だけで個人の能力(脳力)が決まるということは決して無く、どちらも重要であります。ただ、ヒトの場合、持って生まれた遺伝子そのものを変えることはできませんが、経験が遺伝子の働きに大きな影響を与えることが知られています。つまり大人になっても常に新しい経験をすることが脳(個人)の成長に重要で、新しいことにチャレンジする気持ちを忘れずに、果てしない道程ですが記憶の仕組みという大きな謎を解き明かすためにオリジナルな研究を進めていきたいと考えています。
(まつお なおき)