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現在、白眉センター / 法学研究科に所属し、「第二次世界大戦の終結と戦後体制の形成」というテーマで研究を行っている。
1945 年8月 14 日、この日は日本がポツダム宣言を受諾し、戦争が終わった日である。筆者はこれまでの研究で、宮中や、陸海軍、政治家が降伏を決断する過程を分析してきた。そこで痛感したことは、戦争は開始するより終わらせることの方が難しいということであった。
現在、筆者は、首相鈴木貫太郎(海軍大将、侍従長、首相、枢密院議長)の伝記(人物叢書)の執筆に取り組んでいる。鈴木貫太郎は終戦時の首相で、このとき 77 歳であった。日夜の空襲やストレスで体重は5キロも落ち、耳も遠く、体力的にも限界であったという。
人物史の目的は、ある人物の生涯を理解することにより、その時々の決断をより深く理解することにある。鈴木貫太郎に関する先行研究は少なくなく、そのいくつかは 10 年から30 年もの長い研究に基づいているようだ。
先行研究は鈴木貫太郎という人は「実に運の強い人」であったという。この「運の強い」ということをどう考えればよいのか。
たとえば、鈴木貫太郎は幼い頃、馬に踏み飛ばされそうになった。少年時代には河で溺れかけている。少尉時代には錨ごと沈み、日清戦争では銃弾をくぐり、日露戦争では一酸化炭素中毒で倒れている。侍従長時代は周知のように二・二六事件で銃弾を浴びながら一命を取り留めた。昭和戦前期に登場した 15 人の首相のうち7人が非業の死を遂げた中、鈴木首相は8月 15 日に「国民神風隊」の襲撃を受けながらも間一髪で難を逃れている(『日本内閣史録』)。
このような鈴木の死生の「偶然性」をどう見るかは解釈の分かれるところである。史料で実証できない性質のものなので、読み手の解釈にまかせるしかない。
しかしながら、当時者が「運」についてどう考えていたのかという点なら、史料からも、ある程度は実証できる。
『鈴木貫太郎自伝』を読むと、鈴木は何回も死に損なったことを回顧して「人の運命は妙なもの」といい、2度も敵前で水雷が出なかったときには「私にはそういう運命がついて回るのだ」といっている。そして首相就任に際してのラジオ放送では、「国民諸君は私の屍を踏みこえて、国運の打開に邁進されることを確信致しまして、謹んで拝受致したのであります」と言っている。
開戦の詔書は「天佑を保有し」という文言から始まり、終戦の詔書には「時運のおもむくところ」とある。一方、首相となった鈴木貫太郎は戦時議会において「(1918 年の練習艦隊司令官時代、サンフランシスコでの歓迎会のスピーチにおいて)太平洋は名の如く平和の洋にして、日米交易の為に天の与えたる恩恵である、若し之を軍隊輸送の為に用うるが如きことあらば、必ずや両国共に天罰を受くべしと警告したのであります」(6月9日)、「天佑を保有するというお言葉の意味につきましては、学者の間にも非常な御議論があることであります」(6月 11 日)と発言した。ところが、当時の価値観では「天佑」を「議論」することは別の意味を持った。「御詔勅ではないか」「不敬だ」とヤジが飛び、「若し総理大臣でなくして、是だけの言葉を一般の国民が市井に於て言ったらどうなりますか」と厳しく批判された。
鈴木貫太郎は自分の生死だけでなく他人の死にも直面している。日清戦争のとき大尉であった鈴木は部下の上崎辰次郎上等兵曹をなくしている。原因は水雷の不発の責任をとっての自決であった。
鈴木貫太郎の「運命観」は何度も死線をさまよい命拾いした経験がもとになっている可能性がある。そして、それは、無意識のレベルで、終戦時の舵取りに影響を与えたように思われる。鈴木貫太郎は「今日まで生き残ることができたというのは、これは自分の力だけではない。幸運というだけではもったいなくて説明ができない」「生死はその人の信念の問題である」と回想する。ある人物の「運命観」「死生観」「感謝」がどのように関連しているのかという点は、なかなか難しい問いのように思われる。
政治史の分析には①国家間レベル②国内レベル③個人レベルの3通りの分析レベルがある。現在は人物史の手法を通じて、従来合理的に説明できなかった点を少しでも解明できればと考えている。
1918年4月8日の写真。米国国立公文書館所蔵。
日本側史料には「司令官日米親善に関する演説をなす」とある。
鈴木首相の施政方針演説の翻訳。
イギリス公文書館所蔵。鈴木首相の演説内容が、当時、イギリスにも届いていたことがわかる。
(すずき たもん)