| ENGLISH |
ヒトは不安を感じる生き物です。新型コロナウイルス感染症の世界的流行(パンデミック)を受けて外出自粛が要請され、不安を感じることも多い時代です。ヒトの不安は常に合理的とは限らず、不安障害などの精神障害を引き起こすことから、科学的な理解が求められています。しかし、不安のメカニズムの脳科学・数理的な研究は、まだ始まったばかりといえます。これまでの多くの古典的な神経科学の実験、数理モデルは、報酬獲得のためのポジティブ回路を研究対象とし、「強化学習」という数理モデルによって説明されてきました。このポジティブ回路は、無数の失敗を経て、徐々に計算を改善させていきます。たとえば、AlphaGoという碁の人工知能(AI)がついにヒトよりも強くなりましたが、これは、強いAI同士を競い合わせ、失敗を何度も繰り返し、徐々に方略を改善していくことによって訓練しています。一方、ヒトは失敗を恐れて、こうした試行錯誤を意外と行いません。たとえば、ヒトが現実の感染症に対応するには、病にかかってしまってからではもう遅いし、死亡者が増えてからでは手遅れです。ヒトは不安に駆られて、「感染するかもしれない」と考え、実際には何も起こっていないのに、将来の悲観的な予測から方略を構成しています。こうしたネガティブ回路は、ポジティブ回路とは全く違う計算原理を持つことが分かってきました。失敗ができない世界では、試行錯誤ではなく、将来の予測だけで方略の改善を目指すようなのです。パンデミックの脅威を受けて、こうした不安メカニズムの理解は、より重要性を増しています。
私は長年、ヒトと相同な構造を持つマカクザルの辺縁系を対象として、葛藤に関わる脳領野の同定を行ってきました。報酬と同時に罰があたえられる場合,その報酬と罰のセットを受け入れるか(接近)、受け入れないか(回避)、という意思決定に関して心理的な葛藤が生じます(図1A)。これは「接近回避葛藤」とよばれ、心理学における重要な概念のひとつです。葛藤は不安やうつといった情動や気分と関係が深く、抗不安薬の投与によって変化することが知られています。私は、この接近回避葛藤を行動課題に取り入れ、不安の生成に因果的に関わる大脳皮質-大脳基底核回路の機能同定を行いました。まず、前帯状皮質膝前部(pACC)を局所刺激し、意思決定がどのように変化するかどうかを調べました(図1B)。すると、刺激により計算論で導かれた悲観度のパラメータが特徴的に上昇することを見つけました(図1C)。さらに、微小電気刺激によって悲観度を上げたのち、抗不安薬を筋肉注射すると、誘導された異常な回避選択が消失しました。このことから、pACCの異常活動は罰の過大評価を誘導し、「不安」に似た悲観的な意思決定を導いたと考えられます。
我々はさらにpACCにおいて、刺激効果のあった部位に順行性トレーサーウイルスを注入し、関連するネットワークを調べました。すると、線条体ストリオソーム構造に優先的に投射することがわかりました(図2A)。さらに、ラットの光遺伝学を用いてストリオソーム経路の選択的な抑制をおこない、線条体ストリオソーム構造が「不安」行動に因果的に関わることが明らかにしました。また、ドーパミン制御に関わる手綱核の神経活動を記録中に、ストリオソーム経路を刺激することで、手綱核での神経応答を確認しました。これら一連の研究から、70年代に解剖学的に同定され、これまで機能が全く分からなかった線条体ストリオソーム構造の機能の一端が初めて明らかにされました。このストリオソームはドーパミンの活動の制御を通して「不安」の制御を行っている可能性があります。これを調べるため、マカクザル線条体の中の尾状核を対象として微小電気刺激実験を行いました。すると、線条体の刺激は、「不安」生成だけでなく、強迫性障害に似た悲観的な価値判断の固執を引き起こすことがわかりました(図2B)。強迫性障害では、自己モニタリングは正常で、自分でもわかっているのに無意味な行動を繰り返してしまいます。線条体の異常活動が起因となる疾患では、こうした強迫性障害に似た固執現象を併発するのかもしれません。
計算原理に話を戻しましょう。なぜヒトが、ポジティブ回路ではなく、ネガティブ回路を優先するのかは、私にはまだよくわかりません。子供のときには将来の不安なんて全くないようなのに、なぜ大人になるにつれて心配事を増やし、社会の中に組み込まれていくのかよくわかりません。ただ、ネガティブ回路は、失敗ができない世界で役に立つ、一つの安全策を導いてくれます。ヒトは不安ベースの社会を作り上げています。不安そのものは、問題も引き起こしますが、突発的に引き起こされるパンデミックや災害でも対処できるようなロバストな社会システムをも生み出しているのかもしれません。いい悪いは別にして、ヒトの社会がいまも続いている理由は、そこにあるのかもしれません。
図1 A.接近回避葛藤。B.pACC 刺激。C.刺激による罰の過大評価
図2 A.pACC 投射とストリオソーム。B.線条体刺激による回避の固執。
(あめもり けんいち)